保科正之

会津中将 保科正之

文武両道の会津藩と徳川幕府の基礎を築いた名君

2代将軍徳川秀忠の四男。
幼名は「幸松」。母は秀忠公の乳母の侍女・お静。
嫉妬深い正室のお江から逃れ、武田信玄の娘信松院や見性院に匿われて育てられました。
7歳で信州高遠藩の養子になり21歳で高遠藩3万石、26歳で山形最上藩20万石、33歳で会津23万石の城主になりました。

会津藩主の時は、年貢の軽減や社会福祉制度、「社倉制度」、「老齢年金」、「無料診療」、「就業促進事業」の民政、会津藩の精神と行動の規範となった「家訓十五ヶ条」を制定して幕末まで続く文武両道の会津の基礎を築きました。

令和5年NHK大河ドラマ「どうする家康」が話題ですが、家康の生涯(ひとりの弱き少年が乱世を終わらせた奇跡と希望の物語)を描く波乱万丈のドラマは新しい発見があるかもしれません。

保科正之公幕閣

4代将軍家綱の後見人として幕府に参与し、玉川上水の開鑿かいさくは後に「将軍家綱の三大美事」と高く評価されました。
また、殉死の禁止や、江戸の六割が焼失十万七千人の死者を出した「明暦の大火」では被災者の救済にあたり、炊き出しや浅草の米蔵開放等、大胆な政策の実績を残しました。
保科正之は新し時代の藩主として、儒学者で神道家の山崎闇斎を招き「家訓十五ヶ条」の制定にかかわり、文武両道の確固たる会津藩の基礎を築きました。
武断政治から文治政治へと移行し、徳川幕府の基礎を築き、以後、会津藩は正容から松平になり幕末へ続きました。

保科正之公を祀る土津神社

土津神社は何故猪苗代にあるのか

土津神社は鶴ヶ城から見て丑寅の方角(鬼門)にあたることから、この土地より会津藩を守ろうと思ったようです。

土津神社の「土津」とは

神道では「土(つち、はに)」は宇宙構成要素の根源であって万物の始まりで終わりを意味します。「津(つ)」は、会津藩の意です。 よって「土津」とは、宇宙の万里(神道の奥義)を極められた会津藩主ということです。

土津神社境内/写真提供:土津神社

「猪苗代の偉人を考える会」紹介

猪苗代の偉人を考える会は、猪苗代町ゆかりの偉人研究をはじめ、偉人を紹介する講座などを開いています。
また、徳川家康の孫「保科正之」をNHK大河ドラマにする署名活動も行っております。

お問い合わせ

猪苗代の偉人を考える会
小檜山 六郎
tel.090-7930-0901

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